僕は字幕翻訳や吹き替え翻訳の勉強のため翻訳学校に通っていたことがある。
翻訳には必ずその根拠となる資料を提示する必要がある。「なぜその表記にしたのか」という表記上の根拠や、内容に関する根拠など、思いつきで翻訳したことではないことを示す。根拠資料がしっかりしていることで、成果物を信用してもらえる。
根拠というのはオフィシャルな情報であり、信用できると思われる情報であり、客観性のある情報である。「ox さんのブログに書いてありました!」「SNS で見かけました!」「Wikipedia に書いてありました!」「掲示板で見かけました!」というのは根拠とは言わない。
このことはイギリスの大学に留学したときにも学んだ。論文を書くときは自分の妄想ではなく、根拠が必要だ。でもなぜか日本の大学ではそういうことを教わった記憶がない。
イギリスの大学でも学び、翻訳学校でも学び、その後の僕の物書きとしての生活に大きな影響を与えてきた。
しかし最近この考えが揺らいできた。
一つはコンピューターのプログラミングを書くようになったから。例えばプログラミングで分からないことがあったとしても、ハードウェア構成や OS のバージョン、アプリケーションのバージョンなどの条件によって解決方法が変わってくる。教科書を読んで分かる、なんてことは少ない。
だから海外のフォーラム(掲示板)で情報を探すことが多くなったし、そこで答えが見つかることがよくある。誰だかよく分からない人が書いていることであっても、解決のヒントに繋がることがある。
また今年はマイナー言語の勉強を始めた。言語学を大学で学んだ僕でさえ数か月前まで存在を知らなかった言語だし、ましてや普通の人なら聞いたこともない言語だ。
その言語は教材がほとんどない。洋書でもほとんどない。仕方がないので 40 年以上前に書かれたような古い本を買い集めて勉強している。
教わっている先生もプロの先生じゃない。ネイティブとはいえ、言っていることが間違っているかもしれない。
これまでの僕なら、語学(特に英語)で分からないことがあると、教科書をあれこれ探したり、プロの先生に聞いたりして公式な答えを求めて粘ってきた。それゆえに答えがいまだ見つかっていない疑問も多くある。
でも今学んでいる言語はそういうことを言っていられない。分からないことだらけだし、不確かなことだらけだからだ。先生の言うこともあまり信用できない。海外の掲示板をのぞいても、「本当かな」という情報が多い。
だからこそ、これまで言語学や英語を学んで来た勘を活かして、「たぶんこういうことだろう」と信じるレベルで妥協し、とりあえず勉強を進めている。
ぼくがサラリーマンをやめてフリーランスになってから特に大事にしている考えは、<試行錯誤をし続けること>の重要性である。コンピューターや語学で、「パーフェクトではないけれど、とりあえず進む」という方式はまさに試行錯誤と呼べる。最初から完璧を目指すより、実はこのやり方が一番効果的に高いレベルに上がれるのではなかろうか。
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